10.01.28

手は口ほどにものを言う

カメラの前でおじきをする後藤真希さん。
気丈に見えながらも、強く何度も握りしめていた手がとても印象的でした。
彼女が入った当時(たぶん全盛期)のモーニング娘。が結構好きで、実はコンサートにも行ったことがあります。
弱さを見せない人のようですが「何もできないかもしれないけど側にいたい」、「少しでも支えになりたい」という仲間達の気持ちはきっと伝わっていると思います。

 

そして彼女の姿を見ていて、思い出した小説があります。
芥川龍之介の短編「手巾(ハンケチ)」です。

 

夫だか息子だかの死を、顔色ひとつ変えず淡々と話す上流階級婦人の話で、薄情なようにすら見えた彼女が実は、テーブルの下でハンカチを握りしめ、必死で悲しみをこらえていたという、おぼろげな記憶ではそんなお話でした。

 

ただ随分昔に読んだものなので、念のために(?)ざざっと読み返してみたところ、どうもそう単純な話ではなかったようで、すっかり印象が変わってしまいました。

 

微笑を浮かべながらも手を震わせ、実は全身で泣いていたというご婦人に主人公が感銘を受けるところまではその通りなのですが、その後です。
何気なく目を落とした本のその頁に書かれていた手巾にまつわる話。それを読んだ後、主人公の晴れ晴れとした心持ちに変化がおきるのです。
(以下、本文より抜粋)

 

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先生は、別に読む気もなく、漫然と眼を頁の上に落した。ストリントベルクは云ふ。――
――私の若い時分、人はハイベルク夫人の、多分巴里から出たものらしい、手巾のことを話した。それは、顔は微笑してゐながら、手は手巾を二つに裂くと云ふ、二重の演技であつた、それを我等は今、臭味と名づける。……
 先生は、本を膝の上に置いた。開いたまま置いたので、西山篤子と云ふ名刺が、まだ頁のまん中にのつてゐる。が、先生の心にあるものは、もうあの婦人ではない。(中略)それらの平穏な調和を破らうとする、得体の知れない何物かである。ストリントベルクの指弾した演出法と、実践道徳上の問題とは、勿論ちがふ。が、今、読んだ所からうけとつた暗示の中には、先生の、湯上りののんびりした心もちを擾(みだ)さうとする何物かがある。武士道と、さうしてその型(マニイル)と――
 先生は、不快さうに二三度頭を振つて、それから又上眼を使ひながら、ぢつと、秋草を描いた岐阜提灯の明い灯を眺め始めた。……

 

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主人公の先生と共に、読者の方も「ううむ・・・」って感じになりますよね。
気丈に振る舞うご婦人に日本の女武士道を見た気がした。
しかしその後偶然目にした本の中の文章に水を差される。
ストリントベルクが非難する「二重の演技」というものに、婦人の姿が重なってしまったのだ。
武士道に見えた婦人の振るまいそのものを否定しているようでもあり、それに踊らされていた主人公を笑うようでもあり、あるいは本来無関係なものを関連づけ、意味を持たせてはその妄想に簡単に翻弄されてしまう人間の姿を描いているようでもある。

 

幾度もの鑑賞に堪え、読むたびに印象が変わったり、新たな気づきがある。
名作といわれ、時を経ても残っているものには、やはりそれだけの理由があるということですね。

 

『芥川龍之介全集〈1〉』(ちくま文庫)
「手巾」の他「羅生門」、「鼻」、「芋粥」などを収録。

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