▼2011 年 10 月 のアーカイブ

11.10.17

三宅久之氏講演会(10月2日)聴講記

セスナ機上から見たエアーズロック

セスナ機上から見たエアーズロック


ご存じ、オーストラリアの「エアーズロック」、8月にインターンシップで職場体験された学生さんが、ゼミ旅行先のオーストラリア土産に送ってくれました。
上空から見たエアーズロックの美しくて雄大なショットです。
かわいらしいコースターもお土産にいただきました。
わずかな期間のご縁だったのに、こうして気に掛けていただけて本っ当に嬉しいですねー。
ありがとうございます。後期の授業もがんばってください!
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さて、10月2日、岡山県矢掛町の「やかげ町民センター」で政治評論家としてご活躍の三宅久之氏の講演会があり聴講してきました。
備中ブロック(岡山県西部)の市・郡の商工会の交流イベントの一環でした。
タイミングが良くて幸運にも整理券を入手できたのですが、700人弱収容のホールは満席で、さすがの人気ぶりでした。

会場となった「やかげ町民センター」岡山県矢掛町

会場となった「やかげ町民センター」    岡山県矢掛町


冒頭で主催者から昨年12月に人気番組“たかじんのそこまで言って委員会”で、好きな都道府県として岡山県を挙げてくれたという嬉しいエピソードも披露されたのですが、三宅さん自身の話によると三宅さんの父親は岡山の人で日常会話は岡山弁丸出しだったとのこと。
ご自身は東京の生まれですが、岡山を第2の故郷と考えてくれているんですね。

講演は90分弱。
野田首相が就任演説であいだみつおさんの詩を引き合いに出したことの裏話、原発の問題、消費税引き上げの問題、TPP参加の問題などといった専門の政情の話を

 「私は後期高齢者」(1930年生まれの御年81歳)
 「(年齢、経験が)上の者は誰もいない。だから怖いものが無い」

と、ユーモアを交えながら舌鋒鋭く、そして分かりやすく話してくれるので、会場はずっと湧きっぱなしでした。
“たかじんのそこまで言って委員会”について

 「田嶋陽子さんを改心させるために、辞めないでやっている」

との話には会場全体が爆笑の渦。
三宅 VS 田嶋のバトルは番組に欠かせない名物ですもんね。

私が特に印象深かったのは、鉢路前経産相が就任1週間で失言による辞職に追い込まれた話、そして、阪神大震災の対応のため編成した専門家チームに対して当時の村山富市首相が訓示した話でした。
以下、三宅さんの言葉を引用しながら、感じたことを綴らせていただきます。

 「大臣になったとたんにSP(護衛)が付くし、どこへ行っても記者に囲まれ、誰だって舞い上がってしまうもの」

大臣になるほどの優秀な人物の失言が絶えないのはなぜなのか?
言葉は一度口から出てしまうと、独り歩きしてしまうもの。それを自覚していれば
「思ったことをすぐ口にせず、一度頭で考えてから発言すること」
ができないはずないんですが、大臣という職務を担うことでかえって無防備となってしまうんでしょうかね。

 「権力を手にした人がそれを行使するにあたっては謙虚な姿勢であたらないといけない。権力の使い方を誤ってはいけない。」

権力を手にした後も謙虚な姿勢を持ち続けられるかどうかが、そうした無防備さを回避できる鍵なのではないかとも思いました。

 「トンちゃん(村山富市元首相)は阪神大震災の時、自分には対処するだけの力量が無いことを自覚していたので災害対策のプロで対策チームを作った。対策チームを前にした訓示で、全権を彼らに委ねる一方、『責任はすべて私が取る』と言った」

トップが自ら責任を負うと宣言してくれれば、部下は安心して思い切り仕事ができる。そういう組織だとうまくいく、というお話でした。

また、このエピソードからは村山氏のお人柄というか「謙虚さ」を垣間見ることもできます。
自らの力量の無さを悟り、対策チームを作って全権を委ねるというのは、首相という立場上なかなかできないのではないでしょうか?
(個人的には、村山元首相は尊敬する大学の先輩です)

講演を通じて、三宅さんは舌鋒鋭く無造作に話しているようでも決して思い付くまますぐに口に出したりしないし、言葉の遣い方を誤ることは無いだろうと思いました。
多岐にわたる日本の直面する問題点ひとつひとつに的確なコメントを付けながら解説されるのは、さすがの知識と話術でしたし、自分の連載の執筆にしろテレビでのコメントにしろ常に相手を慮る「謙虚な姿勢」を持って当たられていること、そして自分の言葉を「責任を持って」発していることをひしひし感じました。
老いてなお日本の将来を深く憂慮する姿勢、日本国に寄せる熱い思いを強く感じました。
あっという間に過ぎ去る中で、密度が濃くてしっかりと心に響いた講演でした。
6月の辛坊治郎さんの講演に続き、尊敬する“郷土の大先輩”のお話を直接聞けて幸せでした。

700人弱収容のホール内観。ほぼ満席でした

700人弱収容のホール内観。       ほぼ満席でした



11.10.05

考えずにいられない―映画『日輪の遺産』と辺見じゅん氏の訃報に寄せて―

[映画 『日輪の遺産』 鑑賞記]

原作は文庫で500頁を超える大作。尺に収めるためには、どこかを端折らなくてはいけないんじゃないか…。
そう思っていたところ、やはり登場人物にはかなり大胆な設定変更が。
しかし、物語は淡淡と進み、主人公である軍人と教師の“大人”役俳優は演出も控えめで、特に印象に残る台詞も無いまま進んでいく。
屈託なく笑い、歌う少女たちの姿ばかりが印象的。
そうか、これは少女たちの映画なんだ、と途中から気づかされる。
13~14歳の、女学校の生徒20人(キャラクターを際立たせるためか、人数が原作よりも大幅に少なくなっている)。

朗らかに響く少女らの歌声。
 「出てこい、ミニッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし」
醜悪な歌詞と屈託のない少女らの笑顔、朗々とした歌声、そのアンバランス。

エンディングも近づき、8月15日が来て戦争は終わった。
しかし、13~14歳という、まだあどけない少女たちにはやることが残されていた。
彼女たちには自らの身に引き換えてでも守るべき、さらに小さな存在、小さな平和、小さな未来があった…。

 8月15日が来たからといって、いきなり
 「戦争は終わった、明日から復興だ、新しい日本を築こう」
 と前向きになれたわけはない。
 一家の柱である父親は戦地に取られて死んだり消息不明…。
 片や、生還したことを恥じて人目をはばかる人もいる。
 誰もが明日の暮らしの何1つの保障もない。
 幼い弟や妹を飢えさせずに生かしたい。
 乳離れすらしていない赤ん坊を死なせたくない。
 でも、どうすれば…。


明日のため、家族というちっぽけでも2つとない自分自身の世界を守るため、必死に戦後を生きた先人たちについて、往時を生きていない私たちは到底知る由もなく語る資格はないのですが、せめて自分自身に問いかけてみよう、とそんなことを考えさせられる映画でした。


『日輪の遺産』(浅田次郎、講談社文庫、1997)



[辺見じゅん著 『戦場から届いた遺書』 読後記]

先月、9月21日に亡くなった女流作家 辺見じゅん氏は戦地に赴いた兵士の日常生活、家族への思い、望郷の念などをその日記や戦地からの手紙、あるいは遺書などに綴られた「小さなことば」に見出し、粘り強く綿密に取材を重ねては、当時の人びとの真の心に迫り、後世に伝えることに腐心し続けた方です。

この本は、太平洋戦争中、戦場に赴いて二度とふたたび家族に会うことなく死んだ兵士たちの綴った遺書の「小さなことば」に込められた切実な思いを伝えるセミ・ドキュメント。

終戦間際に突如侵攻したソ連軍に捕虜として取られ、戦争はとうに終わったのに収容所で無念の死を遂げなくてはならなかった45歳の父親が子どもに語りかけた「遺言」を読んで、思わず身震いし身のすくむ思いがしました。

『戦場から届いた遺書』の結びで
 「死者たちの小さな、しかし真実の叫びに耳を傾け、歴史の真実を知ること」
の重要性を著者 辺見じゅん氏は説き、死者たちの声こそが21世紀の日本を生きる現代の日本人への遺産であると述べ、彼らが私たちに遺した「遺言」と、今の日本は全く裏腹の姿になっているのではないかと警鐘を鳴らしています。

 日本人である私たちの心の中に、死者は間違いなく生き続けている。
彼らの死が無駄になってはいけない。無駄にしてはいけないと、考えずにいられません。

それにしても、こうした労作があってこそ、平和を享受して生きる私たちが、たとえおぼろげにであっても、大きな時代の潮流に翻弄され若くして死なないといけなかった人びとの心の声を感じ取ることができるのですよね。
辺見氏の遺志に感謝し、ご冥福をお祈りします。

まったく今年という年は、震災とか原発事故とか9.11から10年とかいろいろなことが重なって、いろいろなことを考えさせられずにいられない年ですね。


『戦場から届いた遺書』(辺見じゅん、文春文庫、2003)


『男たちの大和』(上)(辺見じゅん、ハルキ文庫、2004)
実弟 角川春樹氏により映画化されたこの作品、
映画の印象が強いですが、こちらも乗艦していた人びとの内なる声、
その思いに迫る、胸熱くなる本です。




『最後の言葉』(重松 清・渡辺 考、講談社、2004)
戦地で回収された兵士の日記をよりどころに、彼らが何を見、何を考えて生きたかを探ったルポルタージュ。
 ※ 単行本は品切れのようですが、文庫が出版されています。